ブログ 岡本浩和の「人間力」発見日記

聖武天皇の思いを引き継ぎ、あらためて德積みに励みます

(長文です)
今から20年前に開催された「紫香楽宮シンポジウム」の書籍を実家で見つけました。
題して「聖武天皇の夢と謎」。
帯には次のようにあります。

聖武天皇 信楽の地で大願を欲す
1250年前、古代日本の都市計画を一変させる
巨大プロジェクトが進められ、近江の地に建設された「紫香楽宮」。
天皇が紫香楽宮で描いた夢と忘れられた都の謎を
最新の調査と研究成果で解き明かす。

実に興味深い内容です。

以前から何度か記事にも書いておりますが、我が実家は
1200年超前、聖武天皇が都を築こうとした宮町地区にあります。

中で、当時信楽町長であった今井恵之助氏は次のように語っています。

そんなことから、お話を聞けば聞くほど、この信楽の宮町という土地に、聖武天皇が大変な政治情勢の中、この紫香楽宮にいかに固守されて、なかば強引とも思われる形の中でこの都を築こうとしたかということに対して、聖武天皇の思いがいかにこの紫香楽の地にあったかということを強く感じます。
そして平城宮を離れてから都が次々と変遷された中で、紫香楽宮にどれだけの思いを残され、そして同時に大仏の建立についてどのような思いで進められていたか、そんなことを考えますと、まさにその思いが一層強くなるばかりでございます。
信楽町教育委員会編「聖武天皇の夢と謎」(新人物往来社)P96

「なかば強引」という言葉に天皇の強力な想いが反映されていますね。
特に宮町地区は信楽町北部に位置した山奥なので、
子どものときはどうしてこんな場所に都を築こうとしたのかとても不思議でした。
その理由をあくまで私見だという前提で滋賀大学教育学部教授の小笠原好彦先生は
次のような興味深い見解で語られています。

私は、聖武天皇が紫香楽宮で大仏を建立する理由として2つの理由があったと見ているのです。
従来、紫香楽宮が造られた理由として瀧川政次郎先生の述べられた有力な説があります。
簡単にその説の要旨を述べると、瀧川先生は恭仁京は中国の洛陽城を模して建設されたと書かれています。
その洛陽城の南10キロほどのところに「龍門」という場所があって、龍門の石窟寺院に毘盧遮那仏という大仏が造られました。その龍門の前面には「伊水」と呼ぶ河川があり、その「伊水」を模して「大戸川」が流れる信楽で大仏建立を始めたのだとする考え方です。
私は、それはそれとして認めながら、聖武天皇が信楽で大仏造立を計画したのはもう一つの理由があるからだと思っています。
『続日本紀』に記載されている大仏建立の詔には、廬舎那仏の金銅仏一体をつくるに当たって、国中の銅をすべて費やし、銅で鋳造すると書いているのです。
先ほど今井町長がお尋ねになられた件について、天平16年11月13日の段階で銅を流し込むとあります。そうすると、ちょっと表現が良くないのですが、膝上何センチあたりまで流し込めたのではないのでしょうか。私は、膝のあたりまでは鋳造されていたのではないかと思っているのです。
そのことは大変注目すべき点と考えていて、銅を溶かすには大量の木炭が必要になります。東大寺の大仏と比較してどの程度かはわかりませんが、大きな大仏をつくるには大量の木炭を必要とするはずです。
そのように考えると、平城を造営した際に、奈良盆地北側の奈良山からその周辺は、大量の木材を伐採して、もうほとんど大仏を鋳造する燃料がなかったのではないでしょうか。
次に期待して恭仁京に遷都した段階で、恭仁京も大仏を造る木材の条件がそろわなかったので、藤原京や平城京以来の木材供給源として考えられる近江国の甲賀郡が、莫大な燃料と鋳型の骨組みの木材を調達するには適地だったのではないでしょうか。さらに幸いなことに、「伊水」に見立てることが可能な「大戸川」が流れ、この地こそ大仏建立に相応しいということで、聖武天皇は4回の行幸を経て、大仏造立の地に決定したのだと思います。
~同上書P101-102

地の利とでもいうのでしょうか、いわゆる燃料問題、
そして洛陽に模した理想の築城など、とても現実的な見解だと思います。

ところで、今年の元旦、
海外のSNSで「大仏建立」というキーワードがトレンド入りしたそうです。
能登地方の地震に始まった2024年という1年を表す出来事であり、
またトレンド・ワードのように思われます。

天平の当時、やはり疫病や災難が蔓延し、聖武天皇は世界の平和と安泰を祈り、
最大級の毘盧遮那仏、すなわち大日如来を祀ることで
人びとの本性を救うこと、それが世界を平和に治めるための重要な方法なのだと
わかっていたのだと思います。

さて、天平17年は、大仏と紫香楽宮の造営が大規模に進められていた。しかし、4月早々からは周辺であいつぐ火事が起こった。さらに、4月27日、予期せぬ大地震があった。そのため美濃国では国衙の櫓、館、正倉や寺院の堂塔、民衆の家屋が大被害を受けた。その後も、連日余震があいついだ。
そこで、5月2日、太政官が官人たちを召集し、どこを都とすべきかを問うと、みな平城京を都とすべきであると答えたという。なお、余震が続く最中の5月5日、聖武天皇は紫香楽宮から恭仁宮に還幸し、さらに、そこに止まることなく、5月11日、平城京に還幸したのである。
大仏造立が行われ、さらに紫香楽宮の造営が進められていたさなか、大地震が起こることは予期しないことであった。この地震による信楽での被害のことは明らかではない。
しかし、二つの大事業が併行して行われている最中、このような天災が起こったことは、聖武天皇にとってきわめて大きな打撃であったと思われる。それは天皇が古代中国で形成された天命思想をもっていたからである。
天命思想とは、地上の本来、そして真の統治者は宇宙の統治者である天帝であるとする思想である。だが、人でない天帝が現実世界を統治することができないので、地上の誰かにその統治を委任することになる。そのとき、天帝の命令である天命がくだることになる。天命をくだされた者は、これを受けて天子として地上を統治する。そして天子は天帝を祀り、天帝の意志を聞き、さらに徳をもつように努力すると、地上に祥瑞が現れることになる。もし、天子が徳に欠き、また天帝の意志に反すると、天帝はその徳を責めて災異をもたらすことになる。天子の不徳がさらに進むと、天帝は天命を他の者にくだすことになり、王朝が交替するという思想である。
~同上書P33-34

結果、平城京への遷都は諸々の出来事や思惑が重なってのことだったとわかります。
しかし、それが偶然なのかといえばそうではなく、
やはり天意が働き、それが現代にまで引き継がれてきているのだと思うのです。

今回、6日間の帰省はとても充実したものでした。
両親との水入らずの生活、家事全般を引き受け奉仕することなど、
楽しくさせていただくことができました。
そして、聖武天皇の発願を契機に、計画は頓挫したものの
この地に生まれ、少年時代を送った意味が理解できたように思います。
僕の意志の根底にはもちろん全世界の平和と安寧があります。
僭越ながら天皇の思いを引き継ぎ、あらためて德積みに励もうと思います。
長文、失礼しました。
ありがとうございます。
※この田圃全域に紫香楽宮跡があったようです。古に思いを馳せ。


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